西郷隆盛

 

 

成せばなる、成さねばならぬ何事も

成らぬは人の、なさぬなりけり

   

上杉鷹山

 

 

やらないとダメ!!考えてばかりいないで行動しなさい!!という言葉です。 成果が得られないのはその人の努力が足りないからですよ。といさめた言葉です。

 

 

 

 

上杉鷹山とは、どんな人?

上杉鷹山は借金だらけの米沢藩を立て直した偉人です。

10 歳で米沢藩の婿養子となる。 14 歳の頃から細井平洲に師事し、君主としての知識をみがきます。小さいころから勉強熱心でした。

 

17 歳で米沢藩をつぐが、莫大な借金があることを知ります。

鷹山は借金を返すために、自分から模範を示して節約に努めます。倹約家、企業再生のはしりですね。

 

財政再建、産業育成、精神復興を同時にしたすばらしい日本人の先輩です。

 

 

米沢藩は山形県米沢市です。今なお山形県米沢市民の心に深く息づいています。

 

上杉家は関ケ原の合戦で石田三成に味方をしました。


そのため、徳川家康により会津(福島県)120万石から、米沢(山形県)30万石に減らされてしまいます。

減らされ方が凄いです。

 

さらに3代藩主のころは、半分の15万石にまで減らされてしまいました。ここまでくると、悲しくなります。

藩の収入はこれまでと変わらないのに、家臣の出費が多く、藩の財政は大変苦しくなりました。借金総額も大きな金額になっていました。

 

借金で首が回らなくなったので、

しかたなく米沢藩は重税を農民に課します。そのため藩から逃げる人が増えてしまいます。13万人の人口は、1760年ごろは10万人程度にまで減少していました。

 

藩主になった鷹山は、春日神社、白子神社に奉納し決意をします。

春日神社に奉納した誓詞には、

 

・民の父母の心構えを第一とすること

・学問・武術を怠らないこと

・質素・倹約を忘れぬこと

・賞罰は正しく行うこと

 

と決意し、改革に乗り出していきます。

 

財政の再建

 

米沢藩では、農民が生活が苦しすぎて 子供を間引くという悪い習慣が横行していました。

 

上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。

さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまいます。

 

収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。

武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥っていたしまった。

 

日常の食事は一汁一菜、衣服は上等な絹ではなく綿で作られたものだけで、奥女中は 50 人から 9 人に減らしました

一年間の米沢藩の収入、支出、借金などを詳しく記載した帳簿が作られました

 

 

現場から意見を聞く

 

 

「上書箱」という意見を投げ入れるための箱が設置され、所属を明確にすれば、藩士だけでなく、百姓(農民)や町人も意見書を入れることができました。

 

産業の育成

 

上杉鷹山の時代、米沢藩には、これといった名産特産品がありませんでした。

他藩から講師を招くのにお金を使います。将来のために教育にお金を使いました。

 

最も大きな産業開発は「織物業」で、置賜特産の青芋 ( あおそ ) を原料とした縮織 ( ちぢみおり ) に始まり、これらを基として養蚕 ( ようさん ) ・絹織物へと発展していきます

上杉鷹山は、養蚕・織物・陶磁器・和紙などの産業育成に成功します。

 

農業の育成

 

大倹約令と一緒に行ったのが農業開発です。上杉鷹山は安永元年(1772年)、中国の成功例をまねます。

遠山村で藩主が、自ら田を耕す「籍田の礼」をおこないます。

 

農業の尊さ、大切さを身をもって示しました。当時の日本では、武士が農業をすることがありませんでした。

以後、米沢藩士は刀を鍬(くわ)に持ち替え、家臣あげて荒れた地の開発や堤防の修復などが次々に実施されました。

 

精神の改革

 

まずは人の心から

荒れた地を開拓するには、まずは心を変えなければいけない。 と考え精神の改革を進めます。

 

・無駄なしきたりをやめる

江戸時代は、昔からのしきたりが数多く残されていましたが、上杉鷹山は大胆にもしきたりの一部を見直しました。

 

それは藩主として初めて米沢に入るときからはじまり、改革への意気込みを周囲に示したと言われています。

上杉鷹山が破ったしきたりは、「乗馬する位置」「祝いの席の料理」「普通は声を掛けない下級家臣にも声を掛ける」といったものでした。

 

・信賞必罰

上杉鷹山は、「民の父母」となることを自分に言い聞かせ、藩政改革に必要な場合には、例え重臣であっても処罰する

という厳しい態度で自分にも他人にも律してきました。

「泣いて馬謖を斬る」という信賞必罰が大事ということです。

 

伝国の辞

 

ある程度の改革ができたので、35歳で引退を決意します

上杉鷹山が家督を譲るときに、藩主の心得として渡したのが『伝国の辞』です。短い 3 文だけのものですが、上杉鷹山の考えが凝縮された最高の分です。

 

 

 

一、国家は先祖より子孫へ伝え候

国家にして我私すべき物にはこれなく候

一、人民は国家に属したる人民にして

我私すべき物にはこれなく候

一、国家人民のために立たる君にし

君のために立たる国家人民にはこれなく候

 

国家は、今の藩主が作ったものではなく、代々の先祖から受け継がれてきたものだから、私物化するな。

 

人民は自分のものではない。藩主は国民のためにある。

 

なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり

 

内村鑑三(近代日本の思想家)は『代表的日本人』という著作の中で五人の人物を紹介しているのですが、その一人が上杉鷹山です。

 

『代表的日本人』には、日蓮大聖人が、西郷隆盛、上杉鷹山、二 宮尊徳、中江藤樹とともに紹介しています。

日本のリーダーとして、今も愛され続けています。

 

 

参考文献&サイト

 

人物探訪:上杉鷹山

http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog130.html

 

 

 

 

 

記事がお役にたちましたら、いいねをお願いします。

 

のサポートをいたします