世界の自動車会社を一代で作り上げた本田さんの心ふるえる名言です。
日本が生んだ自動車業界の大経営者、本田宗一郎さんの名言です。
困らなきゃだめです。 人間というのは困ることだ。 絶対絶命のときに出る力が 本当の力なんだ。 人間はやろうと思えば、 大抵のことは出来るんだから。 |
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出典: 本田宗一郎 |
失敗もせず問題を解決した人と、 十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。 同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。 それが知らずして根性になり、 人生の飛躍の土台になる。 |
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出典: 本田宗一郎 |
こちらが悪ければ、 悪い人間が寄ってくる。 こちらが信用することによって、 信用される人間が生まれる。 |
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出典: 本田宗一郎 |
チャレンジして失敗を恐れるよりも、 何もしないことを恐れろ。 |
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出典: 本田宗一郎 |
「世界の本田」を作り上げた、日本を代表する伝説の創業者。天性の明るさと、技術に対する深いこだわりを生涯持ち続けた偉人です。
死後も本田さんを愛する人は多く、たくさんの本が出版されています。学歴は小学校のみ卒業しています。
小卒で一部上場企業を作り上げたのは、松下幸之助さんと本田さんぐらいなものです。
本田さんは高等小学校卒業後の1922年に自動車修理工場「アート商会」(後のアート金属工業)に入社します。
当時の表現では「丁稚奉公」です。
1928年に「のれん分け」の形で独立しました。
その後、社長業をしながら「浜松高等工業学校」(後の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、金属工学の勉強にも励げむようになります。もちろん授業は、自分の会社に必要な物だけを聞いていました。
1945年に「人間休業」と称して1年間の休養をとった後、翌年に「本田技術研究所 (旧)」を設立します。
通称「バタバタ」
友人の家で、たまたま知人から預かっていた旧陸軍の三国商工(現・株式会社ミクニ)製六号無線機用発電エンジンに出会います。
これを見た宗一郎は、これを自転車用の補助動力に使うことを思いつきます。
陸軍からエンジン500台を払い下げを受け補助動力付き自転車を発売します。補助動力付き自転車は評判となり500台のエンジンも底をついてしまいます。
1947年(昭和22年) 7月41歳、hondaA2ストロークエンジンを自社生産とした「MODEL A」を発売します。通称「バタバタ」と呼ばれヒットします。 当初の生産台数は200~300台でしたが、すぐに1,000台となります。
本田さんはモノ作りはうまいが資金繰りがうまくなく、代金が回収できなくなることもしばしば・・・
そんな中出会ったのが、1949年に後の副社長となる「藤沢武夫」です。
ホンダが世界的な企業になれたのも、「藤沢武夫」がいたからだといわれています。
世界の本田を支えた男、藤沢武雄
本田と藤沢が運命の出会いをしたのは昭和24年8月、焼け跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋だった。戦争が終わって
4年、人々は貧しい中にも、復興の希望に燃えていました。
「浜松の発明狂」だった本田は「東京に出て本格的なオートバ
イを作りたいが、金がない。」 福島で製材所を営んでいた藤
沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを売りたい。」
初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田、カネの
工面は藤沢」と役割分担を決めました。
藤沢はその場で製材所を叩き売って、資金を作ることを決意し、本田と共に大きな夢を追うことになりました。
ここから、藤沢武夫は本田宗一郎に代わり、経営をします。
常にマスコミからは身を隠して来た人物です。彼の存在と10年、20年先を見越してたてた計画と組織作り無くしては、我々の
知る「世界のホンダ」、「ホンダスピリット」は存在しませんでした。
そこからの経緯は、今の本田をみれば、一目瞭然です。常に陰から本田を支え、世界一を本気で目指した本田と藤沢は
幾多あるピンチを乗り越え、成長していきます。
常に本田宗一郎氏を引き立て、しかも経営の基盤を作り裏から支えた藤沢武夫氏は昭和48年10月
本田宗一郎氏と共に惜しまれながらの引退します。本田氏66歳、藤沢氏62歳の若過ぎる潔い引き際でした。
その引き際は、現在でも多くの人々に賞賛され、多くの企業の手本になっています。
■参考文献&サイト
自動車偉人伝 |
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日本を代表する芸術家 |
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Japan On the Globe(283) |
人物探訪: 本田宗一郎と藤沢武夫の「夢追い人生] |
ハテナキーワード 本田宗一郎 |
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