日本が生んだ芸術家・思想家、岡本太郎の名言です。
いいかい、 怖かったら怖いほど、 逆にそこに飛び込むんだ |
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出典: 岡本太郎 |
自分らしくある必要はない。 むしろ、人間らしく生きる道を考えてほしい。 |
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出典: 岡本太郎 |
人間にとって成功とはいったいなんだろう。 結局のところ、自分の夢に向かって、自分がどれだけ挑んだか、 努力したかどうか、ではないだろうか。 |
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出典: 岡本太郎 |
なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。 |
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出典: 岡本太郎 |
「いつか」なんて、絶対ない。 いつかあるものなら、今、絶対あるんだ。 今ないものは、将来にも絶対にない。 |
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出典: 岡本太郎 |
自分を他と比べるから、自身などというものが問題になってくるのだ。 我が人生、他と比較して自分を決めるなどというような 卑しいことはやらない。 ただ自分の信じていること、正しいと思うことに 脇目もふらず突き進むだけだ。 |
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出典: 岡本太郎 |
岡本太郎とは
1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、シンボル・タワーの制作を岡本太郎に依頼した。太郎は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。
そうして出来上がったのが巨大なシンボル・タワー『太陽の塔』です。
これは、当時の知識人たちから「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びました。
しかし太郎は、「文明の進歩に反比例して、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」と反論します。
「国の金を使って好き勝手なものを造った」という批判に対しては、「個性的なものの方がむしろ普遍性がある」と反論しました。
さすが、クレイジー岡本太郎さん。
1970年代以降は、芸術や著述のみならず、テレビなどにも進出しました。
日本テレビのバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。
冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙の立ちこめる中から太郎が異形の面貌で、 「芸術は爆発だ」「何だ、これは」と叫びながら現れる演出が人気を博すと、流行語にもなった。
番組内で出演した子供たちの絵を批評、お眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。
またこの番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。
1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。
NHK『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。
老いを重ねても創作意欲は衰えず、個展など精力的な活動を続けていたが、
80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画します。
1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去(満84歳没)。
生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった太郎に配慮するため、
葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。
会場には彼の遺した作品たちが展示され、参加者たちは太郎との別れを惜しんだ。
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